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都市紹介
旗

ハバロフスク

KHABAROVSK

人口
58万人(2003.1月末現在)
市外局番
4212
時差
+2時間
気温
月間平均気温
1月 2月 3月 4月 5月 6月
-21.8 -11.3 -7.2 +3.2 +11.6 +17.5
7月 8月 9月 10月 11月 12月
+22.1 +20.2 +13.9 +7.4 -4.1 -12.5

概要

観光情報 バロフスクの歴史と切っても切り離せないのがG.I.ネヴェリスキーです。
ネヴェリスキーはロシアの極東経営の拠点としてこの地に都市建設を決定しました。
1854年2月にはネヴェリスキーはムラビヨフ総督(ムラビヨフ・アムールスキーの名で有名なこの総督の名前は、現在のハバロフスクのメインストリートの名称となりました)にこの地に極東地区の中心とすべく軍駐屯地の設営を依頼しました。
1858年5月18日の駐屯地建設に伴い、1649年にこの地に最初に足を踏み入れた探検家エロフェイ・ハバロフにちなみ、都市はハバロフカと名付けられました。 鉄道駅の前には今でもハバロフの銅像が立っています。
1864年にはリュベンスキーにより、最初の都市プランが作成され、1865年にはハバロフスクにはすでに200軒の建物と1294人の住民が居住していました。 都市建設に携わったのは極東防衛の任務についていたディアチェンコ大尉指揮下の第13極東正規兵大隊の将兵でした。 街の人口構成は、初期には圧倒的に軍人が占めていましたが、軍人を相手とする商人が増加し、それに付随する形で様々な人々がハバロフカに移住しました。 ハバロフカへの移住者は、バイカル湖周辺地区、シベリア地区、オレンブルグ、ペルミ、カザン、クルスク、ニジェノブゴロド、キエフ、ベッサラビア、リャザンの各州モスクワ、ペテルブルグからが多くを占めていました。
役人は短期間の任務を終えるとこの地を後にしましたが、兵士やコサック、商人や農民はハバロフカに定住しました。 ハバロフカは始め東シベリア総督府ソフィースク管区の一都市でしたが、都市の発展に伴いソフィースクの中心都市となりました。
1858年から極東の郵便網の中心となり、60年代終わりにはアムール建設管区の本部が置かれました。
1873年には極東総督アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ大公がハバロフカを訪れるまでになり、これを記念して街のメインストリートはアレクセイ通り(現在のシェフチェンコ通り)と命名されました。
1875年に最初の教育機関である初等学校が開設されました。アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ大公の後を受けて総督の座に着いたのはニコライ皇太子であり、彼の着任にあわせてハバロフスクの象徴であるムラビヨフ・アムールスキー提督像が建立されました。 ハバロフカを州都とする決定がなされたのは1880年4月28日であり、市制が敷かれたのはこの時です。 この時期の街の住民数は2,036名であり、そのうち、47.3%が軍関係者で占められ、23%が町人、21.3%が外国人(ほとんどが中国の労働者)、7%がこの地の少数民族でした。
1884年東シベリア総督府から極東総督府が分離し、総督府がハバロフスクに置かれ、ニコラエフスク、ブラガベシェンスク、ウラジオストックを管轄する街として、ハバロフカはハバロフスクと改称されました。
州都となり、総督府が置かれたことにより、ハバロフスクでは建築ラッシュが始まり、その多くが現在まで残っています。

これに拍車をかけたのが、シベリア鉄道の最東端を形成するウスリースク鉄道の建設でした。
1897年にはハバロフスクとウラジオストックを結ぶ路線が完成し、日露戦争後にはアムール区の建設が1913年から1916年にかけて行われました。 この区間の開通をもってシベリア鉄道の前線が開通することとなりました。 20世紀始めにハバロフスクにおける生活環境は急速な発展を遂げました。
1900年には電話局が開設され、1907年には電力の供給が開始されました。またプーシキン通りがロシアで最初に生まれたのもハバロフスクでした。
1917年の革命は市民に熱狂をもって迎えられ、権力の移行は平和裏に行われ、12月25日にはソビエト政権が樹立されました。 これにはこの地に流刑となっていた政治犯の影響を見逃すことはできません。 しかし、1918年から始まった国内戦は多くの困難と破壊をハバロフスクにもたらし、特に日本軍による干渉は多くの破壊と流血をもたらしました。 ハバロフスクに平和が戻ったのは、1922年でした。
内戦終了後、第一回五ヵ年計画のもと、ハバロフスクは急速な発達をとげ、電気工作機械工場、キーロフ工場、オルジェニキッゼ記念製油工場などの大規模工場が建設され、医科大学、教育大学、鉄道工学大学などの教育機関も開設された。都市の南部には工業施設が、また北部には教育施設、居住区が多く建設されました。また、「ハバロフスク-11」と命名された鉄道駅の設置、極東最大に空港の建設に伴い、ハバロフスクは極東の交通の要衝となりました。
しかし、第二次大戦の開始より、街の発展は大きく遅れました。 戦争開始直後に3万のハバロフスク市民が戦線に参加し、モスクワ防衛戦、レニングラード包囲戦、スターリングラードの戦い、ベルリン攻撃に参加しました。
また、ハバロフスクに残った者も物資の増産に尽力し、防衛基金に多くの募金を行い1944年にはその額は7300万ルーブルに上りました。 街の再建が積極的に行われたのは戦後の10年間でした。レーニン広場(現:自由広場)、コムソモールスキー広場が改装され、チェルディモフカ川、プリュスニンカ川は埋め立てられ現在のアムールスキー、ウスリースキー通りへと姿を変えました。
木造の建物は5-9階建てのレンガ造りの建物へと建て替えられました。 その他、映画館、商店、学校、病院なども建設され、アムール河の岸辺に立つ「インツーリスト」ホテルも建設されました。 現在のハバロフスクは、人口数、工業生産力の点でも極東最大の都市の1つであり、文化的、科学的中心となっています。

観光情報

観光情報

レーニン広場

ハバロフスク州政府前に広がる、ハバロフスクの中心。一角にはレーニンの銅像が立ち、中央には赤い花崗岩で造った噴水があります。
ここからコムソモール広場へと続くムラヴィヨフ・アムールスキー通りが、ハバロフスクのメインストリートとなります。

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栄光広場

アムール河の岸辺に位置し、上部と下部の2つに分かれています。
上部にはスパソ・プレオブラジェンスキー教会があり、下部には対独戦勝40周年を記念して建築された慰霊碑があります。
そこには、対独戦から、アフガニスタン、チェチェンで戦死したハバロフスク出身のロシア軍兵士の名前が刻まれた石壁があり、中央には彼らを偲ぶ永遠の火が灯っています。

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コムソモール広場

レーニン広場からムラビヨフ・アムールスキー通りを展望台に向い進むと展望台に隣接してある広場がコムソモール広場です。
ここはハバロフスク市内で最も古い地区でもあります。この広場にあるウスペンスキー寺院は革命後に取り壊されたものをソ連崩壊後にかつての設計図に基づいて再建されたものです。1891年にウラジオストクで行われたシベリア鉄道起工式に参加したニコライ皇太子(後のニコライ2世)はこの広場でハバロフスク住民の歓迎を受けました。また、広場には国内線における赤軍兵士とパルチザンを偲ぶ記念碑が建っています。

極東軍管区歴史博物館
(赤軍博物館)

革命以前は銀行として利用されていた赤レンガの建物です。1階に展示されている資料はロシアによる極東・シベリア探検及び開拓の歴史、革命後の国内線に関する展示があります。2階には第二次世界大戦のソ連軍についての資料、展示品が飾られています。また、中にはには戦闘機、戦車、野砲が展示されており、実際に手に触れることが出来ます。

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ハバロフスク郷土博物館

1894年にロシア地理教会アムール支部初代会長グロデコフ沿海州総督により開設され、極東・沿海地方の歴史、自然、文化に関する資料が展示されています。1階にはアムールトラや熊等の貴重な剥製が展示されており、2階にはシベリアの少数民族の生活品、民族衣装などがあります。また、シベリア開拓、日ロ戦争の写真やロシア革命についての展示もあります。
その他にも興味深いものとして、シベリア征服時代の様々な社会層の家庭を再現した展示は高く評価されています。

極東美術館

シェフチェンコ通り、黄色い3階建ての建物が極東美術館です。かつての帝政ロシア軍の将校クラブが置かれていた建物であり、1893年には作家チェーホフが滞在したことでも知られています。1931年に美術館となり、現在はシベリア有数の美術館となりました。
2階には極東ロシアの少数民族の魚の皮で作った民族衣装、骨細工、詩集の壁掛けなどが展示されています。3階にはイコン(正教の宗教画)を始め、レーピン、レヴィタン、シーシキンなどの近代ロシア画家の作品や、ルーベンスなどの西ヨーロッパの作品も展示されています。また、1階には土産物屋があります。


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